無人島2016 @第二部室


無人島@第二部室
2016年 11月 1日 報告
以下の活動を早稲田大学探検部主催で実行した。
1. 期間
2016年8月26日( 12:00 ) ~ 2016年9月1日( 13:00 )
2.目的
1自然にあるもので第二部室を作り5日間過ごす。
2部室作りを取り巻くサバイバル技術の習得。
探検とは、洞窟を探すにしてもUMAを探すにしても、前人未到の世界に飛び込むことだと思う。そしてその挑戦を成功させるために、誰もやったことがないという穴を埋めるために、入念な調査をする。
本活動の部室作りにはお楽しみ要素もあるが、それ以上に部室は無人島での生活拠点となるため、よりよく過ごすのに欠かせない1つのサバイバル技術である。行く前にサバイバル技術を学び、島で実践する本活動は、自身にとって未踏の環境でよりよく生きることを模索する小さな探検と言ってもいいのではないだろうか。
3.活動概要
行く前はサバイバル知識を増やす。
最低限の水と食糧と道具で島に渡り、部室作りを中心として、学んだサバイバル知識を実践していく中で5日間の衣食住を満たす。
部室作りに関しては、まず雨が凌げて7人寝られるシェルターを作り、そこに各々が見つけた探検部室らしいものを付け足していき、それを第二部室とする。
最低限5日目にシェルターを完成させる。
参考にする住居モデルは特にないので、皆の知識と創造力で作ることになる。探検部らしいワイルドな部室を作ろう
4.活動地域概要
京の上臈島
香川県香川郡直島町
面積0.34m2
周囲 2.6km
直島・重石ノ鼻岩の北約1kmにある無人島。標高57m
花崗岩の露出が多く、古くは採石場として利用されていた。
浜は1、2か所ほどあり、浅瀬が多い。
上陸許可に関しては島へ渡してくれる日の出共同渡船に問い合わせた所、島の所有者が分からないため皆勝手に渡っているという。そのため、正式な許可は取らずに上陸することになるのでゴミは全て持ち帰る、自然をあまり荒らさないなど トラブルが起きないよう注意する。
5.活動結果(目的達成の有無)
「自然にあるもので第二部室を作り五日間過ごす」これは成功した。私達は松の木や流木を用いて片屋根の空間を作り地面には枯れ草をの断熱材を敷いたシェルターを作った。そこには牛の頭蓋骨のような不気味な流木や破れた網で作ったハンモック、アルミ缶ランタンなどが置かれ、大黒柱には山本語の読めない文字が刻まれていた。狭くて散らかっていてなんだか奇妙なその空間は、探検部室に通じる雰囲気を醸しており、私達はそこを第二部室とした。「部室作りを取り巻くサバイバル技術の習得」これに関しては計画した側が感じたこととしては、あまり達成できなかったのではないかと考える。部室ができて活動も後半にさしかかり、皆の体力気力が無くなっていたことは確かだ。しかし幅広くサバイバル技術を試すのが第二の目的であるので魚を捕ろうとしたり、水を造ろうとしたりしてほしかったとは思う。これに関してははっきりとした到達目標が無いのでなんとも言いづらいのだが、全体の雰囲気として積極性には欠けていると思われた。
6.計画書からの変更
18月26日 14:30渡船乗船
→15:00渡船乗船
28月26日の島到着後、島の周りを徒歩で回り危険箇所を確認する
→8月27日、三角と小林のみで一周する
39月1日10:00渡船乗船 出航場所に戻る
→9:15渡船乗船 宇野港の釣り堀で降ろされる
6.1 上記の問題点
1渡船場に着くのが遅れてしまったために直前に船の人に電話して遅らせてもらったが、もしも予約がいっぱいで遅らせることができなかったら、他の渡船に問い合わせたりその日中に島に着けずに泊まるところに困る(野宿?)可能性があった。
2当初は周囲2.6kmと一時間くらいで回れる距離だと思い全員で回る予定だった。しかしその場では太陽のあるうちに火を起こす方が優先すべきとなり翌日に持ち越され、翌日は眠れぬ夜の疲労で皆がかなり行きたく無いようだったので、二人で行った。一時間くらいで一周できると思われたが、険しい岩場や歩きづらい道を延々歩き続けていたので実際は三時間くらいかかってしまった。岩がかなり脆く恐怖感がある箇所もあったので、もしこれを全員で回ることは困難であった。計画書通りにやらなくて正解だったと思う。
3渡船が予約した時間より早く来たので片付けがまだ終わっていなくてバタバタ慌てたまま出発してし
まったので、これは火の後始末や片付けの不備や忘れ物にも繋がる問題。また、前置きもなく予約の時
言っていない場所になぜか運ばれ降ろされたので、少し怖かった。実際は私たちが駅に近くなるように
配慮した結果だったらしいのだがもしも変なところに降ろされていたら帰れなくなる可能性もあった。
誘拐とかはきっとこんな感じなんだろうなと思った。
6.2 上記の原因
1岡山駅で買い出しをするためバスの時間を遅らせすぎた。時刻表を見てきちんと時間を逆算していなかった。
2自然の、特に無人島など歩く上での情報が少ないところを歩くことを甘く考えていた。大勢でそのようなところを歩くのは危険だと考えきれていなかったため、計画書に実行するのが危ないことを書いた。
3予約時に電話で何度も時間や場所を確認したが、船の人の訛りがすごくてなかなか意思疎通できた気がしていなかった。言ったことや聞いたことがかみ合っていなかった可能性がある。
6.3 改善案
1時間を変更するときは慎重に逆算しながら考える
2やることを書くだけではなく頭の中でイメージしてみてそこに矛盾や危険がないか確かめる。
3予約時はもちろん、船に乗ってからもこれからどこに向かうのか何度も確認する。
4 計画書の変更以外の問題
今回の活動を終えて浮かび上がった問題は全体のもので2つある。
一つ目は活動中メンバーの意思疎通が上手くいかずに不満が後から出てきたことである。
メンバーを募集した時点でそのあたりは懸念事項であったが、人数を絞ろうにもやってみないことには適正人数も選択基準も分からず、ともかく出来るところまでやってみようと思い本活動が始まったので、この問題は予想範囲だったとも言える。行く前の対策としてはメンバーで活動内容を話し合う場を設けたことである。この時は目標についての考え方の違いが分かったり、議論が白熱する場面もあったので対策としてある程度効果があったのではないかと思う。しかし活動中はメンバー同士話す機会が存分にあると考え特に対策をしなかったので、何か出来たとすればそこでは無いだろうかと考える。そこでの対策を今思いつかなくもないが、CL経験豊富な人がCLを務める以外には、例えば御飯時の集まりの時に思ったことを発言する機会を作るなどは学校ぽい形式になりそれもどうかと思うし、周りの状況がよく見えて思ったことをすぐ口に出せる人をメンバーに入れるなどもあるが、短絡的なことしか思い付かないので未だ良い改善策は分からない。
二つ目はまた本活動が一年活動ということで、特に食糧に関しての安全対策を手厚くして米を多く持って来ていたために、空腹だから食糧採集をするといった、サバイバルという言葉からイメージされる純粋な感覚にならなかった、という事を全員が感じたことである。これに関してはただでさえ一年だけで無人島1週間ということを成すためには仕方ないと思う。それに加え、今回の活動はその場にあるものしか使わない漂流民的なサバイバル技術はシェルターを作ることのみで、その他に関しては幅広く野宿や遭難時に使えるような、本に載っていたり自分で考えた技術を試すのが目的だったため、純粋な感覚になりきれなくて当然とも言える。もし次、2年や3年になってからサバイバル合宿をするとすればツブラ島の時のように持って行く物を大幅に制限するか、メンバーを3人以下など大幅に削ることで、今回感じ切れなかった純粋な感覚にはなると考える。
5気づいたこと
島に着いてから非常パック(ヘッドランプ、固形燃料など)を個人装備に書いていなかったことを思い出したのだが、自主的に持ってきていたのは一部しかいなかった。私は無意識に持ってきていたのだが、全員分無いとあればもしもの事態に遭遇した場合のことを考えゾッとした。もちろん私が計画書に書きそびれたのが一番悪いのだが、3回あった審議の中でそのような重大なことに気づく人がいなかったことも疑問に思う。これはサバイバル活動だから非常パックも持ってきてはいけないのだなと解釈する人がいたとしても、それは非常パックが全ての野外活動で持っていくべきものであるので指摘すべきことだったと思う。
7.メンバーの感想、反省
三角 (CL  1年)
この活動は私が小学生の時からやりたかった無人島で家を作るという夢を達成するものだったのでとても楽しかった。それとその夢と今とが繋がってるかどうかは知らないけど、今建築学科にいるので原始的な家、シェルターを作ることは大学生になった私からしてもとても興味深いことだった。
無人島から帰って宇野港に降り立った瞬間からあの無人島での生活は驚く程遠い存在になってしまった。まるで頭が違うモードに切り替わるように。あの淡々としかし強烈で、どうしようも無い程長かった一週間の記憶がなくなるのが本当に悲しかった。そして今、無人島始まって一カ月経った時から1週間あの日々を噛み締めるように思い出していたところ、やはりあの日々は本当にあったことなんだという事実が現実に迫って来た。
ここで無人島の記憶をもう一度咀嚼し直し、考えたことを書こうと思う。普通、都会の生活では自分が自分の行動を決める支配者であり、自然は生活の添え物のようでしかない。家の柱が木材だったらナチュラルでしょ、とか道の脇にイチョウの木があったらオシャレでしょ、とか。しかし、無人島生活ではたった一週間とはいえ本当の意味での自然を実感した。テントも寝袋もなく自然と自分の間は服のみで直接自然の影響をもろに受け続けた自然が自分達を支配していた強烈な一週間だった。正直、サバイバルがどうのこうのよりも、自然を深く感じ考えられたことがこの活動で得られた一番大きな宝かもしれない。夜の闇は寒さと獣に怯え、太陽は本当にありがたい神様のようで、ご飯は生きる源だった。また、シェルターは隠れるもののない無人島での心の拠り所だった。自然との共存を提唱する運動などよくあるが、そんなことは当たり前でむしろ自分が自然の一部で自然よりも下に位置する存在であることを自覚した上での運動なのだろうかなどと考えてしまった。個人的に活動中なるべくテッシュや歯ブラシを使わないことで、細かいところまで自然と一体になるようにしたため、本当に自分は生き物で自然の一部なんだなということを実感することができた。
どんなことをしたのかなど詳しいことは日記に書いてあるのでここでは詳しく書かないが、島一周散策が楽しかったことは書こうと思う。ヘルメットが要りそうなくらい危険でもあったのだが、地理的探検もきっとこんな感じなんだろうなと思った。実際に無人島でありそんなに人が来ないことから、少しは前人未到の場所も踏んだに違いない。小さな洞窟のようなところに入って歌ったらよく響いて楽しかったし太いカメのてが密集しているところもあって宝を発見したような気分がした。最初は大きな石がゴロゴロしているところを歩いていたが、だんだん潮が満ちてきてクライミングになってきた。岩が非常に脆い花崗岩だったのでこの握っているところが折れたら落ちるなという場面も多々あったが、緊張感の中でクライミングするのは純粋にとても楽しかった。
最後に、CLめちゃくちゃ大変でした。計画書作るのがものすごく面倒くさくなって投げ出したくなったり、電話して断られたり、津波が来たらどうしようとか心配したり……。でもまあCLの醍醐味は自分のやりたいことを自分の都合の良い日程でやりたいように出来るということも分かった。それとたくさんの計画を出したり大人数をまとめている幹事長がとてもすごいということも分かった。色々と学びが多かったです。
山本(SL 2年)
一ヶ月前の今日、私たちは無人島に上陸した。光陰矢の如し。あの一週間に体験したことは、もう既に遠い過去の出来事となってしまった。酒を飲み煙草を吸い、人の家に上がりこんで夜を明かす、そんな生活に立ち返ってしまった。悲しい。
今にも切れそうな記憶の糸を手繰ってみようと思う。活動終了直後にははっきりと口に出せなかったことも、一ヶ月後の今なら書けるような気がする。活動の中で引っ掛かりを感じることが幾度かあった。まず、今回の活動では隊員のサバイバル観をあえて統一しなかった節があるが、その割には、シェルターを作ること以外の行動をも一つの方向性にまとめようとするような感じを受けたことだ。この点に関しては、事前にもっと話し合いを重ねるべきだった。
次に、サバイバルの中で大きな割合を占める、焚き火に関する必要な仕事を、特定の人が済ますことが常態化していたこと。細々としたサバイバル技術を試すことも今回の活動の目的の一つであることは承知しているが、その前に必要不可欠な仕事をやろうとはならないのか。そんな風に、なんとなく喉に小骨がささったような違和感を覚えながら活動していた。反省することもある。私は一応、唯一探検部2年生として参加したわけだが、先輩らしく後輩を引っ張るだとかそんな事ができたかといえば、全くもってポンコツだったように思う。なんだかんだで日中は寝っぱなしだし、技術が抜きん出てあるわけでもないし、団体行動は苦手だった。ホントウニゴメンナサイ(土下座)という感じだ。
長々と書いてしまったが、なにも悪いことだけしかなかったわけではない。様々な体験ができて充実した活動だったと思う。具体的に何があったかは、まあ、日記を参照してほしい。
最後に、この活動に向けて長いこと準備をしていたCLの三角さん、並びに隊員の皆に。改めて、ありがとう、お疲れ様。ところであれから何キロ太った?
藝大生の山本によって山本語が木に彫られている。解読不能。
下川(1年
“無人島”!“サバイバル”! これらの言葉の響きに惹かれ、わたしは参加を申し出た。
東京育ち都会っ子の私は、探検部への入部をきっかけに、今まで(今もなお)お世話になり続けてきた文
明に嫌気がさし始めていた。文明に頼らず、自然の中で自力で生活する人たちってカッコイイ。そんな憧れがあった。無人島といったら…白い浜、茂る森、ジリジリと照りつける太陽、ヤシの木、カニ…….。
サバイバルといったら…こげパン色の肌をした人たちが魚を獲り、身軽な猿のような人たちが獣を狩
り、とにかく骨のついた何かを食らっている…..!
わたしは絵本などに登場する そのままのイメージを夢見て無人島活動に参加したが、活動を終えた今、これらが本当に「イメージ」であったことを痛感している。
だが、それでも私がカッコイイと思うフィールド・生活はその貧相なイメージの中にあった。
この活動に参加すれば一生経験することなかったはずのそんな生活が現になるのだ、行くしかない。
私はこのような経緯で参加を即決した。
(以前「サバイバル登山入門」への参加を逃し、後悔していたのもあった。)
振り返ると、この活動は長かった。まず、始まるまでが長かった。私たちは無人島探検ゼミの夜を忘れてはならない。
計画書最終版が完成してからも、隊員たちにはモヤモヤとした不安が残っていた。本活動の目的、持ち物、行動等、アバウトな共通認識しか持っていなかったからだ。
安全確保、文明の道具がどこまで許されるのか、重点を置くべき活動目標、島で隊員はどのように行動すべきか…。
それぞれ目標とするものも違えば、価値観も違う。学生会館の閉館時間を過ぎても議論は白熱した。有意義な時間だったと思う。
それでも不安が残ったぐらいだ。文明人7名がいきなり無人島に飛び込んで生活できるとは思っていなかった。
無人島でその日を思い出すことはほとんどなかったが、こうした事前の話し合いが肝だったかもしれない。
無人島に行く前からわたしには「理想のサバイバル」があった。
それこそモリで魚を「とったどー!」したり、シェルター作りをしたりといったTHE・サバイバルだった。
わたしはそうしたある意味で華のある技術を実践することが楽しみだったし、意義を感じていた。
だが実際に無人島で生活して初めてわかったことがある。…
サバイバル技術とは、厳しい環境で生き抜く術である。
「厳しい環境」というのは、わたしが想像していたようなヤシの木の南国島などではなく、魚を追えるほど透明度の高くない海があって、しっかりした木といえば松しか生えていないような世界だ。
否、それでも甘い方かもしれない。とにかく、冒険技術を実行するために必要な材料が揃えられるような環境ではまずないのだ。
しかしそのような環境に歯が立たなかった。持ち合わせの道具だけではあてにならない技術も少なくなかった。
たとえば、木の枝とホイルで作ったフライパンで目玉焼きを焼くことができたらなんと素敵なサバイバルだろう。だがその卵は、アルミホイルは、一体どこから入手するのか?
つまり私が言いたいのは、サバイバルとは自分たちがそこにある環境を最大限に活用して生活することであって、
単に冒険気分を味わうための知恵、またはそのイメージで終わってはならないということだ。
その点でわたしは無人島生活をなめていたし、会得するべき技術の優先順位の考慮が足りなかった。
予想に反してわたしを最も苦しめたのは夜の冷え込みだった。初日から小雨が降り、風を遮るものがない砂浜で吹きさらしの上、地面が冷たくなるのですぐに体温が奪われてゆく。
だからこそ、私は火起こしや火の扱いにもっと真剣に向き合うべきだったと思う。水の取得もそうだ。そうした生きる最低限の技術でわたしは妥協してはならなかったし、他の隊員に頼るのではいけなかった。
食料も、持参した米と水(これは安全対策上必要あって用意したもので、毎食とる予定だった)に頼りきりだった。
京の上臈島では、エネルギーとなるような食料を自分たちでは殆ど手に入れられない。日数の関係もあっていわば不可抗力だったが、サバイバルの無人島としては負けだったろう。
無防備なことに、雨にも濡れた。”生きる”という点をテーマに掲げたならば、今回の無人島生活は負けだった。
一つ大きな成果は、隊員全員で作り上げたシェルター、通称”探検部第二部室”だ。
場所・設計もまっさらな全く0の状態から、たった数日間で七人が雨風を凌ぐことができる快適な生活
拠点を設営できたことは素晴らしい。
また、無人島生活における隊員同士の関わり方には課題が残されたと思う。共同生活としての一週間は、
私には短いと感じた。
なぜなら、協調性を重視し、自己より調和を尊重することがそこまで苦にならない程度の期間だったと
考えているからだ。
わたしたちの無人島生活は、案外平和に終了することができた。だが帰京してから、一部の隊員が不満
を抱き、その内輪で共有されていたことを知った。
彼らの想いは無人島滞在中に隊全体で共有されることがなかった。私を含む残りの隊員がその想いに気
付けなかったこともショックだったが、
それ以上に、その後の共同生活を考えた時に、意見交換での欠陥が隊の分裂を引きおこす原因になりか
ねないために、後の生活を想ってひやりとした。
個人主義でなく全体主義である以上、不満をぶつける場所が内輪にしかないというのは問題だろう。
人が自分の不満に気づくだろう、もしくは同じように考えているだろうという憶測は初めからあてにならない。
互いの考えを隊の全体で共有する場を充実させること、隊員自ら考えや意見を積極的にオープンにしていくこと、どちらも過酷な共同生活において欠けてはならない心がけだと思う。
これから探検を追求していく者として、今回の無人島活動は必要な経験だったと考えている。
探検の傾向として 普段お世話になっている都会から離れた不慣れな場所が活動拠点となることが多い。
また、意図せずも探検が冒険に変わってしまう時だってあるだろう。
そういった場面で、今回の活動で学び得たものは大きなヒントになってくれるだろうと期待している。
ただ何らかの技術を、その場即興で用いるほどのレベルになるまでは、まだまだ経験を積んでいく必要がありそうだ。
菊池(1年)
無人島での活動を通して、何か確かなものを得られたかときかれたらわからないが、経験値として自分
のなかに何かは残ったと思う。
今回、自身の反省点としては色々あるのだが、総括すると自分は物事を考えるということをしない人間だということを再認識した。それは、活動前の話し合いや、活動中、また活動後にメンバー話していて、しばしば感じた。
前もってそれぞれ島でやってみたいことを決めていたメンバーとは裏腹に、わたしは「無人島で生活してみたい」という漠然とした想いだけで挑んだ。実際、行く前の話し合いには全くもって参加できず、皆がそれほどまでに色々なことを考えていたことに内心とても驚いていた。正直、そんなに難しく考えることなのか…と思ってしまっている自分がいた。しかし同時に自分の頭の空っぽさが恥ずかしくなった。自分も人と意見をぶつけ合ったり、くだらないことばかりでなく深い内容について誰かと語り合ったりしたい。なので今後のわたしの目標は「よく考えること」である。
最後に
一週間おつかれさまでした、ありがとう(^。^)
小川(1年)
私はずっとサバイバルするのが夢だった。探検部に入ったのも、どれほど文明から離れ自分の力だけでどこまでいけるのか試したいというのが大きかったので、この夏ついに実現できてきて初めはとても楽しみにしていた。しかしいざサバイバルが始まると、当然だが思っていたよりもはるかに辛いものであった。特に辛かったのが寒さである。雨が降れば、日はつきづらくなるし、濡れた服からどんどん体温を奪われる。いつものように屋根や着替える服があれば身を守ることができるが、それがなかった無人島では、何度か限界というものを見た気がする。そして、時計がない中、いつ日が昇るかわからない中で凍えながら過ごす夜は恐怖であった。
無人島を通して、いかに自分が無力であるか思い知った。そして自然の中で暮らす生きものたちに敬意を表したいと思った。
走出(1年)
CLの三角から再三、感想を出せと突っつかれている。なんか、言われているのにやらない感じは、無人島に出発する前、対イノシシ用に7000円の催涙スプレーを買わされることにごねていたのを思い出す。夏休みには、多くの活動に参加したが、一番日数が多かったのは、言わずもがなこの無人島の活動である。気付いたら、山では紅葉が始まっており、ハロウィーン一色になっている街を見て、日本のあちこちで過ごした夏休みの日々がかなり遠ざかっていることに気づく、そして後期まだあんまり授業に行ってないような気がしている自分に気づかないふりをしていることに気づく。かといって、今、京ノ上臈島行きの切符が渡されても行きたくはない笑。真夏でもあんなに寒かったのに、今行ったら、確実にぴょんぴょん虫(後で知ったのだが、正式名称はハマトビムシらしい。そのまんま笑)の餌になるに違いない。
今回の活動は、用意周到とはほど遠かった。催涙スプレーは三角に買ってもらったし(もちろんお金は払ったよ)、夜行バスの予約は下川にやってもらったし、何より荷物を詰め始めたのは、夜行バスが出る、2時間前である。しかも、15分で荷物を詰めた自分に対し、活動回数重ねてきたなぁなんて感じる暢気ぶりである。こんなこと書いたら、モチベーションが低いと思われ、三角にショックを与えてしまいかねないし、下川あたりがまたつっかかってきそうなので、誰も私のモチベーションが低かったなんて微塵も思ってないと信じているが、念のため断っておく。私の無人島に対するモチベーションは高かった。特にサバイバルということに関しては、隊員の誰よりも本気だったと信じている。また、不測の事態が起きた時に対する備えも十分だったと考えている。実は、非常食、非常パック(サバシなど)、防寒着、ヘッドライトなどをちゃんと持ってきていたのである。なんか自慢になってしまった。別にそんなことはどうでもいいはずなのに…言い訳がましいということは何かやましいことがあるのだろうか?モチベーションの話に戻すと、無人島ではバカンスみたいに過ごせるかな?という発言が、某下川氏の機嫌をすこぶる損ねていたらしい。まあ、確かに語弊のある表現であったことは認めるが、私の無人島サバイバルのイメージでは、むしろそれが正しいサバイバル方法であったのである。そして、それは活動を終えた今でも変わっていない。休めるときに休み、なるべく体力の消耗を抑え、楽に入手出来る食料を最大限生かし、あとはのんびり思索にでも耽る。これが正しい生き延び方であろう。問題は、その休みの質である。
岡山駅に着いた時、まず岡山の都会っぷりに驚いた。岡山県に足を踏み入れたのは、初めてであったが、なんともいい具合の街である。余談だが、無人島から戻り、夜行バスまでの時間にちゃっかりと、岡山城と後楽園を見て、地ビールを堪能した。岡山駅で水を入手、全員集合し、最後の晩餐(昼飯)を済ませたら、バスに長いこと揺られ、港に着いた。が、船着き場までがとっても長い、ザックだけでなく、水18リットルを手で持ち歩くにはあまりにも長い。ここら辺で、今回の活動じつはかなり辛いかもと思いはじめた。無事船着き場につき、年齢不詳の船乗りのおっさんに予定通り乗っけてもらい、島に着いた。やっぱり島がたくさん浮いている瀬戸内海は美しい。船が遠ざかっていく。この時の気持ちは言葉では伝えられないだろう。ついに始まったという武者震いをするかのような気持ちとも、島からの唯一の移動手段である船が無くなる絶望感とも言えるだろうし、一種の使命感に駆られた気持ちだったのかもしれない。とにもかくにも、無人島での1週間が始まったのである。メンバーは7人、CL三角SL山本、小川、菊池、小林、下川、走出。なんと私以外全員女子である。これは、今回の活動の私にとっての難易度を格段に引き上げる要因であり、普段の活動のような積極性や、発言力を非常に削いだ要因である。多くの人が語っているようにやはり、長期活動の最大の敵は、隊員との共同生活である。
真夏の無人島は寒かった。去年の無人島活動の感想を先輩から聞いたところ、昼間の暑さと蚊が大敵だったと言っていた。そこら辺を覚悟して臨んだが、結果は真逆。蚊はそれほどいないし、何より寒い。初日の夜から雨に打たれ、二日目の夜は強烈な海風に吹かれ、三日目は雨、四日目に至っては、強烈な雷雨で、一時ポールを抜いたテントへの避難を余儀なくされた。その後は、割と天気が良かったのは救いであるが、普通に夜は寒い。よく考えたら、台風の心配とかもある中で、いまいち天気については調べていなかった。また、天気を予測する方法の資料とかも、三角が作ったやつを読んだが、予測できたとしても、我々には何も成す術がないということに気づいた。本当に初日から火がついて良かったと思う。そして、火をつけるには乾燥しているか否かが非常に大事であるということを痛感した。理論上は誰もが知っていたとしても、実際にやってみて、痛感し、創意工夫を凝らしてみないと身につかないということである。本当に火は偉大であると感じたし、火を崇める宗教ができるのも納得である。夜、暗く、寒く、雨が降っていたとしても、火があればなんとかやっていけるのだと実感した。ただ、そんなにも重要な火であるにも関わらず、山本さんを除く他の隊員が、火を絶やさないことに関してあまりにも無頓着であったことに関しては不満がある。なぜ、薪を用意しようとしないのか、なぜ、小さくなっている火に薪をくべたり、空気を送ったりしようとしないのかわからなかった。そのことに関しては、帰ってきて、しばらく時間が経った今でも一悶着ある笑。
また、サバイバル技術を色々と試すべきだという考えの人と、まず継続的に生存できるようにしてから、余力で色々試すべきだという意見の人がいたのだが、そのことについてお互いに当然だと思っていて話し合いすら行われず、お互いに、相手の行動に不満を持ってしまった。まあ、ある程度シェルターを作った後、どのような形で進めていくかということに関して、事前に話し合いをしなかったのが問題であるが、そもそも、事前の話し合いの争点はシェルター作りをどこまでこだわるか、ということだったので、仕方がないかもしれない。無人島での生活は他の長期活動よりも(海外遠征とかはもっと大変かもしれないが)よりいっそう、共同生活という面が課題になるのかもしれない。
二日目の夜には、1週間もあるのかよ、三角に騙されたわとさえ思った。そして、毎日夜に怯え、雨に怯え、人間とはこうも弱い生物であるのか痛感した。そして文明の偉大さを思い知った。着いた日から性急にやらねばならないことはシェルター作りであった。それはもう満場一致だった。それほどまでに島の夜は厳しかった。結果としてはかなりのクオリティーのものができた。見た目もかなり立派である。実は風は海風の一方面しか防げないし、雨は全く防げなかったのだが。それでも、なかなかに良いものだった。
タラバのジーンズ。無人島に行ってない人は何のことだかわからないだろう。タラバとは、カメノテの事である。白米のみの生活だった初日と二日目を終え(しかも、初日や二日目は水の残量が、心配だったり薪でご飯を炊く事に慣れてなかったりで、かなりの失敗作だった。)、そろそろきつくなってきた三日目の夜、我々の食糧事情に突如彗星の如く現れた、磯の貴公子、それがカメノテである。もはや革命だった。ただ、少し海水を混ぜた水で茹でただけのカメノテ汁であったが、あの感動は言葉では伝えられない。強いて言葉で表すなら、ゴールドラッシュでカリフォルニアに殺到した炭鉱たちが、まさに金脈を見つけたかのような、オーラスのハイテイで役満をツモったかのような、いやそんな安っぽいものではない、感動というより衝撃だった。我々がぞんざいに扱ったせいで錆びかけているオピネルとは違い、鍛冶が丹精込めて鍛え上げた日本刀のような鋭さを持った、それでいて横綱の張り手のような強さを持った、そんな衝撃だった。とにかく凄かったのである。それゆえに、カメノテは、無人島のタラ
バガニとまで呼ばれたのである。(実はタラバガニは、蟹の仲間じゃなくてヤドカリの仲間だったり、カメノテは岩にへばりついて動かないくせに、貝じゃなくて蟹の仲間だったりと色々ややこしいのだが)ちなみにジーンズとは、カメノテの胴体?部分を覆っている皮のような部分のことである。米の方もだんだんと炊くのが上手くなっていき、ついには薪の火力でほかほかのご飯を炊きあげることができるようになった。やはり、ご飯が美味しいと明日への希望が持てるし、これから迫り来る闇夜も乗り越えられるような気がしてくるのだ。大切なのは、雨風をしのげる場所と温かいご飯である。これを手に入れることこそが無人島での生存率を上げるだろう。
六日目の夜とか七日目の朝は、本土に帰ったら何を食べようということしか考えてなかった。船が迎えに来た時も、ちゃんと迎えに来てくれたことにホッとしたが、寂しい気持ちは大してなかった。しかし、いざ出航して、グングン島が小さくなっていくのを見た時は、こんな島二度と来ねえという気持ちより、まるで1週間苦楽を共に過ごして分かり合えた仲間と別れるような、寂しい気持ちの方が大きかった。
本土に帰ってからはそんなに語ることはない。久しぶりの車と信号にドギマギし、町のうるささの驚き、ご飯の美味しさに感動し、日焼けしたところに温泉がしみたくらいである。とにかく今回の活動は得るものがとても多く、楽しいものだった。お疲れ!
小林 (1年)
無人島どうだった?と聞かれると何と答えればいいのかわからない。雷雨や寒さのせいで夜も眠れなかったし、もちろんチョコや肉も食べられない。今思えば特別な体験だったかもしれない。でも米が炊けて皆でがっついたこと、またカメの手取りに奮闘したことは自分にとって普通のことでありずっと前からそうしてきたかのように思えた。無人島という特異な場所で普通に過ごせたことが一番良かった。なんか平穏だった気がする。
夏休み明け最初のゼミで無人島について話す機会があった。そこでみんなに色々聞かれ、教授には「それを一本の小説にできる?」と言われた。私がみんなの前で話したことは無人島での過酷さ、天気についてが主あって本来の私の目的の人間とは、という目的を見失っていた。恋愛は起きなかったの?という質問にもnoと答える私に教授は、「じゃぁ、自分の目的のために何か悪さをしたの?」と言った。私は勇気を持って上流の際に自分の尿を撒き散らしたことを話したら、それは悪さじゃない!みんなのコメを海に捨てればよかったのに、、、と言われてしまった。一週間で人はそう簡単に壊れないし生きていける。(食料があったから)しかしこの食料が少し多すぎた気もする。あともう一週間長かったらどうだっただろうか。
文責 三角(CL)
編集 小野寺(広報)

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

WP-SpamFree by Pole Position Marketing