熊野古道 真実の探求Ⅰ

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以下の活動を早稲田大学探検部主催で実行した。

1.期間
 2018年2月9日〜2018年2月18日

2.目的
 熊野古道において、古代の鉱山跡を調査する。周辺の環境の特徴を記録し、吉野における鉱床発見、あるいは存在ことの証明への足がかりとしたい。(地形だけでなく、植生も大きな要素となる。)
 また、霊的な何かが鉱山発見に関与する可能性も探り、鉱山発見の手法に用いることを検討している。道を歩く事でしか得られない何かがある筈だ。
 過去の山師が鉱物資源を発見した過程を推理する。

3.計画からの変更点
 隊員は最終的に阿部、五十嵐、酒井の3名となった。
 日程に関して、天候の都合上2日目の活動終了は川添駅までになった。3日目の活動終了は梅ヶ谷駅。4日目は三野瀬にある民家。5日目は尾鷲市、6日目は賀田、7日目は熊野市、8日目は新宮、9日目は那智光山公園、10日目に本宮大社にて活動終了した。
 すべてテント泊の予定だったが、民家に宿泊させてもらったこともあり、テントの使用は2回となった。
 装備に関しては、人数の変更に伴い酒井が大コッヘルではなく個人装備のコッヘルを持ってきたのみである。欠席者が出たことによる装備の不足はなかった。
 その他特記するべき変更点はなかった。

4.結果
いくつかの街で実際に鉱物の採掘が行われたこと、そこから発展する産業の関連などを確かめることができた。
特に途中、上里の庄司屋さんで聞いた話と現地の資料から得られた情報は今回の計画で得られた最大の成果である。他の情報も併せてこれからのアプローチの向上に役立てたい。

5.隊員所感

保健衛生 五十嵐侑
1日25kmくらい進むのが調度良かった。現地の情報が手に入ったので成果があったように思う。時期的に寒かった。

記録 酒井大河
 2月19日13時半頃、僕ら3人は小口という山と山の谷間にある小さな集落の使われていない小学校で昼食をとっていた。そこで予定を変更し、その集落での停滞の予定をとり辞めて、小雲取山を越え、目的地の熊野本宮大社まで一気に向かうことを決めた。
 朝8時に那智の高原公園を出発し、大雲取山を越えた僕らには疲労の色も濃かった。それでもなおこの決断をしたのには、時間に余裕があったからという理由よりも、「早く快適な暮らしに戻りたい」という探検部員が抱いてはならないような感情を、僕ら3人が共有してしまっていたせいである。危険が付きまとう屋外での長期活動で隊員同士が気持ちを共有することは当然プラスなことだが、この場合はその限りではないような気がした。
 僕にとって今回の探検は、探検部での今までの活動の中で最長だった。2月8日に赤坂見附の天下一品で「こってりラーメン」を食べて、鍛冶橋からバスに乗り込んだのも遠い記憶になっていた。それ以来風呂も2回しか入れず、まともな飯も取れていなかった。いや「こってりラーメン」はまともな飯といえるだろうか?
 それはさておき、今回の熊野古道伊勢路での探検には踏破以外に「金の存在を明らかにする」という目的があった。あまりに道程が辛いからしばしばこの本来の目的を忘れてはいたが、時々怪しい岩等があるたびに思い出し、僕が持って行ったちゃちな金属探知機にかけたりしていた。ちなみに先に申し上げていくと反応した岩はなかった。
 しかし成果がゼロだったか、と言われるとそういうわけでもない。4日目か5日目くらいだっただろうと思う。船津という駅周辺の集落を歩いていた僕ら3人は、その日も朝から峠を1、2個超えていて疲れていた。4日目、5日目になれば、当然隊員同士で話す内容なんてほとんどない。道沿いの民家が廃墟か、とかお地蔵さんの表情がユニークだ、とかそんなような会話だったはずだ。そんな疲れた僕らを見透かすように休憩中の僕らを、あるご夫婦がご自宅にあげてくださった。4日も5日も風呂に入っていない男子大生3人を。
 ご夫婦はこの熊野古道を歩く旅人をよく泊めるということだった。僕らも泊まっていくよう促していただいてはじめは気が引けていたが、雑談するうちに、裏の山に60年前ほど前に掘られた金脈がある、という話が出てきて僕らはその周辺調査という名目を得られたので、その晩は泊まった。その晩はおかげで4、5日ぶりの風呂に加えて、カレーやら干物やら、お酒やら、至れり尽くせりの晩を過ごすことができた。つまり前述のまともな飯も取れていなかった、という部分には語弊があった。人間辛いことばかり覚えているものだ。
 長期の探検になるとメンバー同士、ギクシャクしてくるものだが、僕たち三人の限りでは、違った。リーダーの阿部ちゃんは高校時代から登山の経験があり、今回も高いスキルで僕ら二人を牽引してくれた。五十嵐はご存知の通りポンコツだが、それがイライラさせるものではなく終始和ませてくれた。海沿い砂浜で一人顔面から転んでいたシーンは旅のハイライトだ。
 今回、金脈を探しに行き、伝承や噂、金脈の存在を匂わせる数々の証拠を知ることができた。これからもこの活動にコミットして行きたい!

CL阿部徹太朗
 今回は初日の夜から寒すぎて眠れなかったので疲労が常につきまとっていた。辛すぎて当初の目的を忘れかけ、思い出したがまた忘れた。まあとにかく五体満足で帰ってこれたから今回もめでたしめでたしってことで!!3人なのに6人用のテントを持っていったのは反省点。
 次に予定している熊野計画こそが本筋である故、許してほしい…。やらなきゃ意味ないんだけどね。

日次報告書(阿部)
2/8
 活動開始前日に2年生の幡野さんが就活、1年生の小笠原が体調不良でそれぞれ参加できなくなる。最終参加者は五十嵐、酒井、私阿部の3人。五十嵐に関しては体力があることは確認済み。酒井に関しても体力があるという話を聞いている。夜行バスに乗るため、東京駅の八重洲口に向かう。若干寒いがこれから南に向かい、暖かくなることを考えると気がまぎれる。夜行バスはJRのものを利用。翌朝の6時に名古屋駅に到着する。隣もおらず、快適に過ごせる。

2/9
 目覚めると名古屋駅に到着していた。味噌カツおにぎりを買って朝食にする。鈍行列車に乗り、伊勢市駅まで向かう。列車内は特に東京と違ったところはない。9時ごろに伊勢市駅に到着。伊勢神宮外宮は駅から徒歩5分くらいなので、見て回ることにした。さすがというべきか、朝だというのに人が多い。本殿に至る道は長大で歩くと結構時間がかかる。境内には巨大な樹が何本も立ち並んでおり、歴史を感じさせる。本殿は敷地内の突き当り、向かって右手にあるが、鳥居をくぐってすぐにカーテンのようなもので遮られ、先に進むことはできない。カーテンの前でお参りを済ませる。本殿以外にも社殿は数多く、小さな祠のようなものも多い。時間があったのですべて回ったが、いかんせん金に余裕のない学生の身、お賽銭は全てには入れられなかった。
 伊勢神宮外宮から出ると、小腹がすいたので道路を挟んだ反対側にある茶屋で一服。赤福とほうじ茶を注文する。200円也。赤みがかったあんこの中に餅が入った赤福は私好みの味で、すぐに食べ終えてしまった。
 隊員2名との合流地点は伊勢神宮内宮である。外宮からの距離は5~6kmといったところ。

 伊勢神宮内宮に到着するが、2人の姿が見えない。集合時間まで余裕があったので中をみてまわる。入口の大鳥居は巨大で目を引くが、それよりも目を引くのは橋である。特に大きいわけではないのだが、木造の橋がⅠの鳥居とⅡの鳥居の間にかかっており、俗世と境内を行き来する特別な道に見えておもしろい。橋の上流10~20mのところには何本も支柱が立っているが、これは橋の支柱ではなく、洪水の際に上流から流れてきた材木などの勢いを殺し、橋を保護するためのものであるらしい。
 外宮から内宮に来てみてまず気づくことは、境内の明るさであろう。外宮は鬱蒼とした大樹に覆われ、落ち着いた雰囲気があるのに比べると、内宮は圧倒的に明るく、清澄な空気が流れている。参詣した時間帯にもよるのだろうが、そんな印象を受ける。しばらく進むと、川でお清めができる場所がある。そこでお清めをしていると、LINEで連絡がきたので、内宮前のバス待合室で落ち合う。

 酒井は50L くらいのザックで来ていた。ヘリーハンセンの白のジャケットにオリーブ色のパンツ。活動を共にするのは初めてだ。探検部員とは普段あまり話さないのでどんなやつなのかわからない。驚くべきことに金属探知機を持参していた。ハンディなタイプで、黒のプラスチックの持ち手にドーナツ状の先端部がついている。ベンチに座りしばらく待っていると、待合室の前を見慣れた顔が通り過ぎていく。五十嵐だ。いつもの70Lくらいのマウンテンハードウェアのザックに、先輩から買った赤のレインウェア、グレーのパンツ、ザックの脇にはコンビニのビニール傘をぶち込んでいる。五十嵐とは何回か活動に行っているが、いまだにわからないことが多い。
 出発の前に内宮を見て回る。本殿までの道のりはやはり長い。その後内宮前のおはらい町、おかげ横丁で昼飯に伊勢うどんを食べる。一杯500円也。東京のうどんとは違い、面が太くふわふわとした食感で、どうもゆですぎて伸びきったうどんのような気がしてしまう。マヨネーズをかけたくなる味。御木本道路を通り外宮へ。
 外宮に到着、軽く中を見て出発。一路西へ。外宮を出てすぐのところで本屋があったので入ってみる。五十嵐が三島由紀夫の『不道徳教育講座』を購入。本当に読むのだろうか。店主のおじさんと奥さんが会話しているのが聞こえたが、何を言っているのかわからない。このあたりの方言はよくわからない。
 宮川の辺りに出る。人身御供の碑がある。川沿いは眺めがよく、落ち着く。川を渡ると、ドン・キホーテやザ・ダイソーが立ち並ぶ通りに出た。ダイソーでレーションや食料を買い込む。大通りから外れ、水田の中を進む。作業中の女性に道を聞く。単調な景色が続く。五十嵐と酒井はラーメンチェーンでのバイトについて話している。途中、田んぼの真ん中にこんもりとした森があったので気になって覗きに行く。中は手入れの行き届いた小奇麗な神社だった。
 幕営地は田丸城周辺と決めていたので、田丸まで来た時点で初日の活動は終了とした。商店で玉ねぎを購入、カレーの具材(ξ)とする。五十嵐は半額以下になった目玉焼きパンを買っていた。ここでも店主とその息子のやり取りを聞いたが、理解不能。酒井が道を聞くが、ほとんどわからない。
 田丸城址には中学校が立っていたが、最上部まで上がっていくと、水場もある最高の幕営地。周囲に高い建物がなく、眺望良好。モンベルのステラリッジ6型、「巨根」を張り食事にかかる。カレーを作り、食って寝る。コメは焦がしてしまい、茶飯のようになってしまった。
 夜中、底冷えのあまり何度か目覚める。かなり寒い。
(伊勢神宮外宮~田丸城址 13㎞)

2/10
 朝、ラジオの音と人の話し声で目覚める。近隣の住民の散歩コースになっているらしい。あまりテントを張っているところを見られたくないので、急いでテントを畳み、朝食にする。五十嵐がお汁粉を作るが、餅が古すぎて長時間煮込んでも柔らかくならない。あんこの汁と菓子パンで腹を満たして出発。天候は快晴だが、ラジオの天気予報によると、今日は午後から天候が崩れるらしい。早めに幕営地を見つけなくてはならない。
 田丸城址を出て、ひたすら西に進む。静かな田舎道を進むこと1時間、玉城町から多気町に入り、段々と上り坂になっていく道を南下していくと、第一の峠、女鬼峠の標識が出てきた。今回の計画では伊勢から熊野まで、およそ200㎞の行程を行くが、町から町に移動する際に、必ず峠越えが必要となる。今でこそ山をぶち抜くトンネルや、大きく山体を迂回する道路ができているが、かつては峠越えこそが唯一の道であった。年間数万人と言われた熊野参詣客達は行列となり、峠を越えていったのである。当時は多くの人々が利用し、伊勢路は人という血液が絶えず通う生きた導管という面でも、事実整備されているかどうかという面でも、生きていたのだろうが、現在はどうか。人のにおいはまだ残っているのだろうか。
 峠に入る直前、道端で、小鳥が死にかけているのを見た。目のあたりに赤い、球形の結晶が光っている。血液だった。弱弱しく、こちらを見ることもしようとしないその鳥は、今日のうちに死んでしまうのだろう。
 伊勢自動車道をくぐり、いよいよ峠に入るというところで、ガードレールに灰色のニット帽が掛けられてあった。じゃんけんの末私が獲得するも、なんとなく嫌な感じがして酒井に譲る。間もなく木漏れ日が気持ち良い林道に入る。女鬼峠は最高点の標高が120mで岩を削った切通しがある。切通しまでは10分ほどで着いたので、ついでに最高点まで登る。最高点には鈴木牧之がここで詠んだ歌を記したパネルがあり、遠くの山々を見渡すことができる。
 すぐに峠は終わり、左手に大きな池が見えてきた。畑の中に出る。周囲を山に囲まれた相鹿瀬の村。なぜか大きな合掌造りの民家が建っている。道なりに歩いていくと、左手にまた大きな池が見えたが、よく見ると宮川であった。川幅が広く、水が綺麗な清流である。さらに進むと、浄法法師五輪塔があったので、手を合わせる。その昔、伝染病がこの村に流行した際に自ら生き埋めになった法師がいたそうだ。道沿いに神社と寺が少し間隔をあけて一軒ずつ。
 バイパスを通り柳原の村に入る。入ってすぐに寺が二軒。足湯や酒造が並ぶ。小さな集落である。宮川沿いに進み、かつて弁慶が休憩したことがあるといわれる小さな滝に行く。ここから道は旧道コースと新田コースの二つに分かれる。旧道コースは川を大きく回り込んでまた戻ってくる道、新田コースはバイパス沿いに製茶屋や蔵が軒を連ねる道。ちょうど昼飯時で、早く休みたかったので、新田コースを行くことにした。
 柳原橋を渡り、新田コースの道を通り、栃原の村に入る。商店があったので、そこで少し休憩をとる。碌なものがないので、昼食は少し進んでからにする。国道42号線を越え、線路沿いに進む。国道沿いに面白そうな廃墟や大きなスーパーマーケット、レストランなどが並んでいるのを見て、線路を横断して向かう。スーパーで各自乾麺を4食分、野菜ジュースと昼飯を購入。たまたま落ちていたカップ焼きそばをいただく。私はマヨから丼。酒井は麻婆豆腐、五十嵐は何か忘れたが丼物を食べる。駐車場で青い目をした灰色の毛の猫を見かける。
 昼食後、再び線路沿いを進むと、バカ曲がりと呼ばれる大回りの道にいたる。今では線路も国道も通っているが、かつては深い谷であるこの不動谷は交通の難所であったらしい。古道は道路の下にあった。排水埋設管の中を進み、小川に出る。川の浮石伝いに進むと、山道に出た。その後国道に合流する。
 神瀬村に入ると、面白いものがあった。神瀬の多種神祠。庚申様、津島天王、皇大神宮、山の神が一つ屋根の下に祭られている。 
 神瀬の村を通り抜け、下楠の村に入る。このあたりで雲行きが怪しくなってくる。昨夜は非常に冷え込んだ。もし雨でぬれた状態であの寒さの中眠るとしたら最悪だ。どこか駅の中、屋根のあるところで行動終了したいと考えていた。下楠はこれまでの村と比べると店もあり、栄えている印象があった。途中、村の掲示板というものがあったので、早稲田大学探検部と記す。
 川添駅前あたりまで来たとき、酒井が東屋アリの看板を見つける。渡りに船とばかりに東屋に向かう。ボロ小屋でも屋根があればまし、と思っていたが、現れたのはしっかりとした小屋であった。木造で8畳くらいの小屋の中は、前面にフェルトが敷き詰めてあり、机と電気があり、そして何より、ストーブが備え付けてあった。僥倖である。早速中に入り、荷を解く。ストーブのスイッチを入れる。しかし電源は入るのだがすぐに切れてしまう。何度も試してみたがだめだった。残念だが屋根と床があるだけでありがたい。時刻は15時。まだ日は高い。雨の中近くの商店まで買い出しに行く。スーパーで厚揚げ(65円)やネギを購入。酒屋でゆず濁り酒(1300円)と1本50円の賞味期限切れビールを購入。
 酒屋でカモられた。酒屋のビールには賞味期限切れなので50円とあり、ゆず濁り酒には定価1000円とあった。酒井が代表でゆず濁り酒を買ったのだが、その際に店員の女性がビールを定価の300いくらで売ろうとしたので、さすがに酒井もそれに反発、50円で売ってもらう。しかしその後ゆず濁り酒1000円に対し、消費税300円の詐取が行われ、会計後には店員に対して怒るよりも寧ろあきれてしまった。三重県では酒に対して30%も消費税がかかるのか…。
 東屋でラーメンと厚揚げの食事。
(田丸城址~川添 21㎞)

2/11
 朝、寒くて目が覚める。ラーメンと野菜ジュースの朝食ののち、ストーブの軽油を使ってごみを燃やしてから出発。今日は一日、天気はいいらしい。粟生の村を抜け、高菜の村に入る。鶏舎があり、かなり臭い。単調な道が続く。国道42号線に沿って進み、JR紀勢本線をくぐり抜け、下三瀬の街に入る。入るとすぐに大きな八柱神社が目に入る。北には山、南には宮川が流れ、人はその狭間で生きている。
 昔は下三瀬の街から三瀬坂峠に向かう際には渡し舟を利用したらしいが、現在は存在しないため、西に進み、佐原の街から船木橋(登録有形文化財。近代モダンのデザイン…?)を通って宮川をこえる必要がある。4~5㎞くらいの大回り道である。下三瀬の街にある家はどれも大きく、立派な石垣を備えている。近くには三瀬砦跡がある。ここは過去、北畠家の家臣、三瀬氏の城址があったそうだ。町外れに大谷不動明王という神社がある。ここでは滝が神体として祭られている。入ってみると一人のご婦人が線香をあげて祈っているところであった。聞けば、ここで友人と待ち合わせをしているという。
 佐原の街に入る。スーパーのイオンがあったので揚げ物を食べる。スーパーの前で女性に声をかけられる。伊勢路を何度か踏破しているベテランの方であった。女性によると今日は温泉のある阿曽の町まで行けるかもしれないとのこと。3日目、そろそろ風呂に入ってもいいかもしれない。船木橋の前にコメリがあったため、酒井がガスバーナーを購入。また、寒さ対策にタイツを購入。橋から見た宮川は美しかった。透き通った緑の流れと荒々しい川床の岩はいつまで見ても飽きることがない。
 三瀬坂峠まで2キロほど、歩く。未舗装道路を通り、第二の峠、三瀬坂峠に入る。峠道を1キロほど登り、下る。ザックを重く感じる。3人なのに5~6人用のテントを持ってきた自分が恨めしい。新品のザックなので、性能テストをしようと思って必要以上に荷物を重くしてしまった。峠の最高地点には地蔵の祠がある。峠を越え、降りると宮川からの支流、大内山川に出遭う。
 道なりに進むと、伊勢神宮の別宮である滝原宮が見えてくる。滝原宮の前には縁起を現代風のイラストで示した4コマ漫画が展示されている。中に入ると、ひたすら参道が続く。巨大な神社である。最奥部までたどり着くと4つの社殿がある。神社の祭っている神、神の格によって参拝の順番が決まっているので、その通りに参拝する。私たちのほかには2人参拝客がいるだけであった。峠越えの後に長い参道を通って参拝するのは肉体的に苦痛だった。もっと短くしてほしい。
 神社を出て祝詞橋を越え、滝原の街に入る。行政的には大紀町らしい。少し寄り道をして大滝峡を通る。大滝峡サイクリングロードを歩く。大内山川と巨岩の形成する川の眺めは素晴らしい。対岸に2つほど別荘のような建物が見えた。あんなところで過ごせたらどんなにか気持ちいいだろうか、など想像しながら歩く。大滝峡キャンプ場でオレンジのような果実がちょうど生っていたのでもぎ取って食べる。私はすっぱくてあまり食えなかったが、五十嵐、酒井は美味いと言って食っていた。その後、古道に戻り、阿曽の街に向かう。イオンで会った女性が温泉があると言っていた町だ。
 阿曽踏切を越え、阿曽の街に入るとガマ石(噴出した鉱泉から沈殿した炭酸石灰の塊。石灰華という。)が私たちを出迎えた。しかし想像していたのとは違い、さびれた町だった。街並みはレトロな昭和の街といった趣でいい感じなのだが、問題の温泉が見つからない。一つだけ温泉があった。しかし、温泉街と呼ぶにはあまりに寂しい町だった。落瀬橋を渡ると、阿曽観音堂があったので、巨大な欅の下で昼食にする。私はα米の五目おこわ、五十嵐はラーメン、酒井もラーメン。酒井はイオンで買ったコーヒーも作っている。
 休憩後、国道42号線と合流し、藤ケ野の街を通過、岩船橋を渡り、柏野の街に入る。津島神社があるらしいので、詣でるが、津島神社の分社であった。
 想定以上に夜が寒い上に、昨夜は快適な東屋で寝てしまったので、隊のメンバーは3人ともテント泊はできるだけ避けようとしていた。宮原に街に入ると、伊勢柏崎駅で寝られないかどうか議論し、また先に進むことに。紀勢自動車道と久しぶりに出遭い、松原の街を通過、芦屋の街に入る。大内山牛乳の本場、大内山である。ここにはミルクランドというショップがあるらしいが、古道沿いにはないので行かずに、道端の商店で大内山牛乳を求める。しかし店主によるとミルクランドに行かないと牛乳はないらしい。親切にも店主の男性は私たちをミルクランドまで車で連れて行ってくれた。そこで私たちはアイスクリームを食べ、牛乳と地酒の「杉の子」を買い込んだ。
 店主に別れを告げ、芦屋の街を出、大津の街に入る。廃屋があったが、その周囲には数え切れないほどのサルが群がっていた。私たちは恐怖を感じた。テント泊でサルに襲われたらどうすればいいのだろう。そんな対処法は知らない。梅ケ谷駅のホームで寝ようか、等と話しつつ歩く。
 日も落ちかけたころ、梅ケ谷駅に着く。駅のホームと屋根はある。壁はない。困った。駅の裏には八柱神社がある。神社の軒下などで寝られないかどうか調べるが、寝られそうな場所はない。神社の前の公園で食事。全員ラーメン。就寝。
 その夜、本殿脇の神主の道具がたくさん置いてある暖かい部屋に入って熱燗を飲み、寝る夢を見た。
(川添~梅ケ谷八柱神社 34.5㎞)

2/12
 朝、神社の前で朝食。中島みゆきのオールナイトニッポンを聞きながらラーメンやα米を食べる。神社から一刻も早く立ち去りたかったので、暗いうちに出発。ツヅラト峠と荷坂峠の二つの道があったが、日の出前で暗いため、より安全な荷坂峠を通ることにする。熊野街道ができたころはツヅラト峠が本道だったが、現在は荷坂峠が本道らしい。雪がちらついている。寒い。
 国道沿いを進んでいくと、休憩所の廃墟があった。比較的新しい。建物は2階建てのコンクリート造り。一階部分は車を止められるスペースになっており、二階が休憩所のようだ。正面玄関から向かって右と左にそれぞれ4~5台ずつ駐車スペースになっている。ツタが絡んではいるが、まだ新しい。屋内はうっすらとホコリが積もってはいるが、足跡や荒された形跡は全くなく、保存状態は非常にいい。一階の駐車スペースはすべて個室のように区切られているため、毎回ドアを開ける必要がある。正面向かって右側から順番に見ていく。特におかしな部分はない。真新しい足跡をつけながら2回に上がる。二階に上がると、すぐに部屋がある。部屋の構造は、扉のわきに支払いなどの小窓があるタイプ。部屋はそれぞれ違った趣旨で、面白い。丸いベッドや四角いベッド、和風の内装や洋風の内装。特に面白かったのは利用者ノートである。ホモの部屋や若者の部屋、老人の部屋など利用傾向がわかる。しかしおかしな点はない。その後林道に入ると、鹿の親子が通り過ぎていった。
 第三の峠、荷坂峠の入口は紛らわしいつくりをしていた。看板のわきに小さく下向きの矢印が付いていて、そこに道があるのだが、脇にもっと大きな道がある。私たちは一度その大きな道に行ってしまい、戻ってから下の道に行った。ひたすら下りが続く。最後は細い道を通り、終了。終わったところに作業用のショベルカーなどがカギもかけずに置いてあったので、写真を撮って遊ぶ。ひたすら道なりに歩いていくと東長島に入ったらしい。左手に海が見えると思ったが、片上池という巨大な池らしい。道の駅があったので寄る。私はホットドック、二人はチキンカツサンド、マンボウ串を食べる。どうもマンボウは寄生虫のイメージがあって手を出せなかった。トリのような味らしい。そのまま進み、紀伊長島にはいる。魚町を歩く。やっと海が見られる。
 途中薬局で五十嵐が鎮痛剤を購入。今後のためらしい。
 のどかな港町を進む。青い空にトンビの白が映える。巨大な造船所は赤くさび付いて、いまにも崩れ落ちそうである。寂れているけど、どこか懐かしい気持ちになる。酒井や五十嵐は神奈川の港町を思い出すと言っていた。暖かい日差しの中、海にはカキが繁殖していた。JR紀勢本線は堤防に沿って、大抵は堤防の外に、敷かれている。津波や台風に襲われれば瞬く間に交通は麻痺してしまうだろう。そんなことを話しながら歩いていると、第四、第五の峠、一石峠と平方峠が姿を現す。無料休憩所で少し休んでから峠道に入る。
 峠自体は短いうえにこれといった特徴はなかった。峠から見える海は確かに綺麗ではあるが、見飽きている。峠を越えると古里の街に入った。ここ古里には大きな海水浴場があり、夏は多くの海水浴客で賑わうらしいが、私たちが訪れた際には誰一人居なかった。それどころか古里の街で見かけた人影は年老いた女性一人であった。
 すぐに古里トンネル脇の遊歩道に入ったが、そこでまたもや廃墟を発見。酒井が調査。中はサルの巣窟と化していた。去り際、無数のサルがこちらを見ていた。途中にあった展望台からは水平線が見える。遊歩道を下ると神社があり、細い橋を渡って道瀬の街に入った。
 橋は堤防につながっていて、そこから道瀬の街を右手に、大海原を左手に見ながら進んだ。堤防の突き当りから海水浴場を通りぬけ、坂道を上り路線橋の手前で第六の峠である三浦峠、通称熊谷道に入る。峠は険しく長い。道に沿って石垣が続いている。これは猪が里に下りてくるのを防ごうとして作った石垣で、猪垣と呼ぶらしい。この後の峠でも多々見受けられる。終わりには重厚な熊ケ谷橋がある。直径80cmを越える巨木を何本も使用した橋だ。橋の後には地面の褶曲が露出する場所もあり、面白い。
 三浦の街に着いた。三野瀬駅前あたりで商店に入り、レーションを補給する。道なりに進み、第七の峠、始神峠の入口にある始神さくら広場に到着。昼食にする。風が冷たいが日差しは暖かい。近くにホテルの廃墟があり、酒井が行きたがっていたが、断念。始神峠に向かう。
 道に入ると結構な登りが続く。途中12曲がりという難所があったが、数えてみたところ9曲がり程しかなかった。最高地点にはよく整備された立て看板などがあり、景色がよくこれまでの道も一望できた。
峠を越えた先には東屋がある、と地図に書いてあるので、私たちは多分に期待をして峠を降りた。川添での一晩の後、私たちの中では「東屋」に対して一種のホテルのようなイメージがついてしまった。快適すぎたのだ。しかし地域住民の手作りであるという東屋は、立派ではあるものの、柱と屋根のみの簡易休憩所でしかなかった。本来東屋とはこういうものなのだろう。必要以上に失望した私たちは休憩もそこそこに先に進んだ。干上がり水の流れていない大舟川の川床を渡り、上里の街に入る。
 道路の交通量も多く、若干ではあるが栄えてきた。町中の道を行く。地図によると、この先に庄司屋といって「古道客を手厚くもてなしてくれる」民家があるらしい。いまいちよくわからないが、とにかくそこで一息つこうと考えて進む。
 庄司屋はわかりやすい佇まいをしていた。木造の、決して豪邸ではないが、通常よりは大きい和風建築、左手に小さな離れ、そして入口には西洋風の門がある。そして庄司屋と、大きく書かれた木の看板。確かに休憩所のようでありながら、よくよく見るとただの民家としか思えないつくりである。恐る恐る門をくぐり、玄関前に立つが、さすがに呼び鈴を押す勇気は出ず、門から玄関までの通路に腰を下ろし、三人で休憩していた。よくわからないけれど、そろそろ行こうか、という時。離れの中から人が出てきた。出てきたのは私たちの親よりも年配であろう女性だった。気を使って下さり、お茶を出してあげようと言ったり、家に入れと言ったりするので酒井がとんでもないと断る。確かに、そこまでお世話になることはないし、お年寄りの話に付き合っていたら日が暮れてしまう。第一、何日も風呂に入っていないので私たちは臭かった。そうこうするうちに主人の男性が家から出てきて、自慢の木造建築だから中を見てほしい、と言われ、さすがに断るのも申し訳なくなり、中に入る。玄関は広く2畳ほどある。ザックを玄関に置かせてもらい、家に上がる。上がり框の前は障子になっており、左と右に通路が伸びている。左にある和室に通され、ソファーを進められる。部屋の天井は広く、太い梁が何条も見える。部屋の南の角には机が置いてある。机の上には書類が置いてあるが乱雑な印象はない。部屋の北の角に業務用の巨大な印刷機があるのが目立つ。主人の書斎兼応接間といったところか。ソファーが北の壁に南向きに設置してある。ソファーに座るとすぐに夫人がお茶とお菓子を出してくれる。私たちが早稲田大学探検部の学生であると名乗ると早稲田大学の学生はよくここに来るのだと言って写真を見せてくれた。早稲田山の子。彼らも熊野古道伊勢路を歩きに来たらしい。主人はもともと東京で建築家をやっており、夫人は三重県四日市出身だという。いろいろな写真を見せられたが、政界の大物と映っているものもあり、彼の人脈の広さが窺えた。また、彼の作品の写真を見せてもらったが、その中には私もかつて利用したことがある軽井沢にある練馬区の保養施設もあり、意外なところでかかわりがあった。誠に奇遇である。
 主人と話しているうちに私たちの計画の話になった。私たちは「熊野古道大峰奥駈道に隠された黄金を見つけるため、伊勢路を歩き、鉱石のある場所を実際に見て、過去、鉱脈があった場所はどうなっているのか、また、鉱脈がある場所はどのような自然環境をしているのか、探っている」と説明した。そうだ、ザックの重さと峠の苦しさで忘れかけていたが本来の目的は黄金だった。説明しつつ目的を思い出し、早く調査をしなくては、と気が急く。
 黄金、と聞いて主人が地域にあった鉱山について教えてくれた。曰く、昔この地域に利一という子供が住んでいた。彼はとても賢かったが、その賢さゆえに周囲からは変わり者扱いされていた。ある日、利一が夢で町の南にある山の中腹に鉱石が眠っているのを見たと言い出した。彼の言う場所を掘ってみたところ、実際に鉱石が出た。そして小規模ながらも坑道が掘られ、そこでは黄金も産出した。利一鉱山。第二次大戦前には採算が取れないとのことから廃坑になってしまったが、主人が子供のころにはまだ遊び場になるほど形が残っていたという。利一さんのお孫さんは近所に住んでいるというので、またアポイントを取って話を聞きに来るのもいいかもしれない。
 非常に興味深い。もしかしたら今でも坑道が残っているのではないか、と主人は言う。なんだったら、明日、連れて行ってやってもいい、とも。願ってもない申し出である。そして今夜は庄司屋に泊まっていってもいいと言ってくれる。ありがたい。時間がとられることに対する危惧から、酒井はしきりに断ろうとしているが、私は泊まり、明日、利一鉱山に行きたくてたまらなくなった。
 主人は用事があるので一反外出するというので、その間に外を散歩してみる。主人の言っていた山の麓、林業作業用の道の入口を探してみる。もしかしたら私たちだけでも行けるかもしれない。しかし見つからない。明日、案内してもらうのが一番だ。そう話し合う。出発して早々に黄金を見ることができるのか、期待に胸が高鳴る。
 庄司屋に帰ると、風呂に入れてもらった。久しぶりの風呂である。さすがに風呂は私たちが洗って入れた。着替えまで用意してもらった。酒井は着替えを用意していたが、私と五十嵐は服を借りることにした。夫人が主人のものであろうパジャマを2セット、ソファーにおいてくれる。酒井がまず入り、次に五十嵐が入ることになった。着替えを持っていこうとしてーなぜかパジャマの上を二つ持っていこうとした。慌てて止める。何を考えているのだろうか。五十嵐が行った後に酒井が言っていたが、五十嵐、風呂を入れるときに風呂の栓を締めていなかったらしい。恐ろしい奴だ。しばらくして、奴の声が聞こえてきた。洗面所にあるタオルを使っていいかどうか聞いているようだ。私たちは最初にわざわざ新品のタオルを指定されて使っていいと言われていたのだが、五十嵐は何を言っているのだろうか。風呂に入るだけでこれだけのミスを犯すとは本当に恐ろしい男である。
 風呂の後には主人が熊野古道についていろいろと教えてくれた。さらに夕食までご馳走になる。食卓には焼き魚、イカと里芋の煮つけ、主人が作ったという野菜のサラダ、茶碗蒸し、カレーライスなどが並び、ビールに日本酒まで出してくれる。すべて夫人が用意してくれ、お代わりまでいただいてしまった。野菜を補給できたのは助かった。五十嵐の箸の持ち方はおかしい。
 書斎の奥にあった部屋に行くと、布団が用意してあり、さらには電気カーペットも敷いてあった。至れり尽くせりである。快適な布団で眠る。
 明日は予備日を使って午前中に利一鉱山、午後は阿曽に電車で戻って聞き込み調査でもすることにする。
 
 主人が言っていたことで興味深いことがあった。早稲田大学はこのあたりに土地を持っているらしいのだが、ここのところ、奇妙なことが起きているという。地域一帯、山の斜面が途中からすっぱりと、崩れ落ちているというのだ。地震の前兆だろうか。見てみたいものである。
(梅ケ谷の八柱神社~庄司屋 27km)

 2/13
 主人が朝起こしてくれる。朝食になるから食卓に来いという。食卓に行くと、すでに夫人の手による朝食が並んでいる。生卵、アオサの味噌汁、漬物、焼き魚など、豪勢な朝食である。主人が、利一鉱山について友人に聞いたところによると、入口はつぶれてしまっているらしい。山道も主人だけではわからないので今日は案内できないという。残念。今後の行程について、注意点をA4にまとめた紙を渡してくれる。ありがたい。
 出発してすぐに地域の資料館を発見。海山郷土資料館という。白い木造の建物で欧米の教会を彷彿とさせる。もともと金持ちの別荘として建てられ、役場や公民館として利用されてきたらしい。見学無料のようなので中に入ってみる。入って右には農具が大量に並べられた部屋があり、左は一段高くなっていてガラスケースにいろいろな資料が並べられている。正面には何もなく、突き当りを右に曲がると小部屋があり、特別展示として「山の神」展をやっていた。ガラスケースの展示を見ていたら、鉱石の展示があった。そこにアンモニー鉱石が展示してある。アンモニー鉱石は、輝安鉱、アンチモンともいわれる。世界のアンチモン鉱床はともかく日本に限ればアンチモンはたいてい、水晶や金、銀とともに産出する。このことから過去、アンチモンが発見された場所では金も算出すると言われていたそうで、それは庄司屋で聞いた話とも合致する。そして今ここにその辺で拾ったであろうアンチモンがある。
 酒井が学芸員さんを呼びに事務室に行ったのでついていく。学芸員ではないが管理人だというその男性は酒井曰く知性を感じさせる話しぶりでその鉱石の発見者や利一鉱山についていろいろと教えてくれた。細かい沢や尾根の地名が記された地図や町村誌を引っ張り出してくれた。
 その後ひたすら海山の街を南下する。相賀の街に入り、さらに進む。銚子橋を渡り、第八の峠、馬越峠に向かう。途中国道沿いに伝説の英雄である「種まき権兵衛」の絵と解説がある。道の駅で昼食にする。馬越峠は登りが急だが峠歩きに慣れてきたこともあり、そこまでつらくはない。最高地点は350mほど。すぐに到着する。最高地点から尾根伝いに天狗倉山山頂に迎えるらしい。最高地点の休憩所に荷物をデポして天狗倉山へむかう。山頂には巨岩が突き立っており、はしごでその上に登る。山頂からは4方向の眺望が開け、遠くの山々、熊野灘を一望できる。絶景である。
 長くつらい下りを終え、舗装道路を進んでいくと、尾鷲の街に着いた。これまでで一番大きい町だ。早速図書館に向かい、ここでしか閲覧できない郷土資料を読み漁る。小さな町の小さな図書館で私たちは悪目立ちしていた。気づくと日は沈み、閉館の時間となっていた。図書館裏の中村山公園に上り、人目に付きづらそうな場所を幕営地とする。荷物を置き、庄司屋で教えられたスーパーに出かける。ついつい生のハンバーグや惣菜など買いすぎてしまう。また中村山に登り、飯を食い、眠る。
 久しぶりのテント泊で寒さが身に染みる。
(庄司屋~尾鷲 12㎞)

2/14
 朝、ラジオの音で目が覚める。外に出てみると、かなりの人が集まっていた。私たちはテントを公園の一番高いところ、展望台のようになっているところに張っていたのだが、その一段下には土俵とちょっとした広場がある。そこにラジオが置かれていて、地域の中高年層の人々が集まってきていた。起きてからトイレに行き、戻る途中で声をかけられ、気づいた時には3人ともラジオ体操に参加していた。
 尾鷲を発ち、中川橋を渡り矢浜の街に入る。ここでは古道は民家の間を通っており、迷いそうになった。石油貯蔵施設の間を通り、第九の峠にして伊勢路最大の難所、八鬼山峠に入る。上り始めてすぐは綺麗な石畳が続き、歩いていて気持ちがよい。しかし行き倒れ供養碑がほかの峠と比べると明らかに多く、嫌が応にもここが難所なのだということを意識させられる。山道の途中には特徴的な形をした巨岩が無数に転がっている。難所中の難所、七曲がりを通り過ぎ、荒神茶屋跡、桜の森広場と進む。荒神茶屋跡には神社があった。小川が流れ、水が甕にたまっていたが、どれも凍結していた。五十嵐が石段の上から凍結した水たまりの上に飛び降りようとしていたので直前で止める。恐ろしい男である。桜の森広場は景色が良い。三木里登り口まで降りると、舗装道路にでた。長かった。
 沓川沿いに海岸に向かう。暖かな日差しが気持ち良い。海岸まで行くと小さいが美しい三木里ビーチに出た。藍色の海と暖色系の砂浜、青い空。水道管理業者以外にはだれもおらず、沖縄にあるリゾートホテルのプライベートビーチといった趣だ。公衆便所の張り紙は日本語とスペイン語だった。スペインの巡礼道を意識しているのだろうか。海を眺めながら昼食をとる。全員ラーメン。
 三木里の街は小さく、八十川橋を抜けるとすぐにヨコネ道、そして第十の峠三木峠、第十一の峠羽後峠に入る。ここのところずっと海が見えるので気持ちが良い。長い猪垣に沿って歩いていくと、賀田の街に着いた。港町である。このあたりから先、熊野までは峠が連続し、歩くのは難しい。そのため、昔からここは渡船業が発展しているらしく、町のいたるところに渡船業者の看板がある。そして看板には「無料休憩所あります」とも書かれている。休憩所とは何なのか、いまいちよくわからなかったが、一晩休憩させてもらえないだろうか、などと邪な思いを抱きつつ休憩所の扉を開いた。中にはだれもおらず、扉には釣り竿が掛けられて突っ張り棒のようにしてある。窓はすべて締め切ってあり、板が打ち付けられている。電気、水道、ガスはすべて通っていない。こういうものなのだろうか。とりあえず荷物を置かせてもらい、駅でカレーライスを作って食べ、戻って布団を借りて寝る。
(尾鷲~賀田 17.5㎞)

2/15
 朝、暗いうちに駅に移動し、朝食。全員ラーメン。トイレで水を補給してから第十二の峠、甫母峠、通称曽根次郎坂太郎坂に向かう。1世紀ごろから伊勢の国と志摩の国の境であったことから、次郎は自領、太郎は他領にそれぞれ由来する。現在の行政区も境界は同じままで、この峠越えの最中に熊野詣で客は熊野市に入ることになる。
 飛鳥神社の前で妙齢の女性二人組を見かける。熊野詣で客だろうか。飛鳥神社の樹々はどれも巨大で圧倒される。甫母峠を降りると二木島の街に出た。とても小さな湾に面した港町で、すぐに通り過ぎてしまったのだが、なぜか湾の景色に強い郷愁を覚える。この景色をいつまでも見ていたい、と思ってしまった。これまでの景色と比べて特別綺麗である訳では無いのに。後ろ髪を引かれる思いで第一三,一四の峠、二木島峠、逢神坂峠に向かう。
 緩やかな峠道を行く。しかし峠が連続したために疲労が激しく、時間がかかってしまう。ようやく新鹿の街に着く。自動販売機で買ったコカ・コーラがおいしい。海水浴場がある。
 この海水浴場でちょっと面白いものを見た。私たちは峠から降りて砂浜の東の端に着いたのだが、西の端に簡易休憩所が見えたので、そこで昼食をとることにした。堤防から降りて砂浜に行く際、川幅が6mほどの小川にかかった橋を通って行ったのだが、西の端に行ってみると橋脚はあるものの、橋がなくなっており、かといって戻るのも面倒なので渡渉をすることにした。酒井はすぐに靴を脱ぎ、さっさと渡っていったのだが、私と五十嵐は靴を脱ぐのが面倒で、何とか浅瀬を渡っていけないかと探して回った。結局私は渡れるところはないと判断し、靴を脱いで渡渉した。休憩所につき、酒井と食事の準備をしながら、そういえば五十嵐が来ないな、と海を見てみると、五十嵐が頭から砂浜に突っ込んでいった。あまりに綺麗に転ぶ瞬間を見たので私と酒井は大分笑った。後で聞いてみたところ、浅瀬をジャンプして越えようとしたが失敗して転んだという。五十嵐が休憩所に着く頃、私の足はすでに乾いていた。
 昼食に私はα米を、五十嵐と酒井は激辛の台湾ラーメンを食べて出発。海がきれいに見える波田須の道に入る。道はすぐに終わり、また湾に出た。ここは不老不死の薬草を求めて中国からやってきたと言われる徐福を祀る徐福の宮がある。ここから上陸したらしい。家々の間を看板を頼りに進み、第十五の峠、大吹峠へ向かう。ここも猪垣がよく保存されている。大泊の街に入るが、防波堤沿いにすぐに通過。見たことのない鳥を見かける。
 第十六の峠、松本峠を越えると、熊野市に到着。ここから新宮までは一日で着く。今日はしっかり休んで明日からの熊野三山調査に備えることにする。
 庄司屋で言われた銭湯に入り、スーパーで食料を補給し、獅子岩の近くにテントを張って食事をとる。水場が近くにないのでお寺の手水を頂く。ここの浜は砂ではなく石である。海の波に洗われ表面はなめらかで神社の玉石のようである。テントで横になっても体が痛くない。
(賀田~熊野市 20㎞) 
 
2/16
 朝、波と車の音で目を覚ます。朝食に菓子パンやうどんを食べ、出発。花の窟神社に行き、神体である巨岩を見る。岩としてはマグマが冷えて固まったものである。高さ25mの頂上部から縄とその装飾が伸びている。白っぽく、遠目には石灰岩にも見える。その後、少し進むと熊野市歴史民俗資料館を発見、入って見る。小さな建物で、一階には地域全体の3D地図があり、貴重な文書や火縄銃、刀や槍といった歴史資料が展示されており、二階には漁具や農具といった民俗資料が展示されていた。天狗鍛冶という鍛冶がこのあたりにいたらしい。又、このあたりに鉱山があったということも確認できた。
 七里御浜と呼ばれる美しい直線の海岸線に沿ってひたすら南下する。歩いていて気持ちがいいが単調である。昔は海岸線がもっと山側に迫っていて、ここを通る際には波にさらわれて死ぬことが少なくなかったという。楽になったが、つまらなくなった。このあたりでは1年中ミカンが取れるらしい。キンカンを植えている家が多く、歩きながらもぎ取って食べる。
道の駅で昼食にする。正面玄関の前にベンチがあったのでそこで調理。少々目立つが致し方ない。全員ラーメン。中で試食のミカンを食べる。店内から出てきた女性にミカンを頂く。甘くてとてもおいしい。道の駅七里御浜から少し進むと阿田和の街に入る。ここはかつて江華島事件で有名な軍艦雲揚が遭難、沈没した場所である。さらに進み、紀伊井田駅のあたりで山側に進む。紀宝町の山間の道を進み、山を下りると、熊野川、そして湖に浮く島のような新宮が目に入る。立派な社殿が見えるので、それが熊野速玉大社かと思えばそうではなく天理教団の建設物だったらしい。熊野大橋を通り、ついに新宮の地を踏む。
 橋を渡るとすぐ右手に熊野三山が一つ、熊野速玉大社がある。早速向かう。周囲は普通の商店や民家が並ぶ。その中で鳥居の朱も鮮やかに熊野速玉大社は私たちを待っていた。しかし入ってみると小さく感じる。なんだこんなものか、と思う。
 すぐ隣に神倉神社がある。この神社は第一の鳥居、第二の鳥居があり、そこから急な石段となっている。酒井と五十嵐を下に残し石段を上る。無限に続くかと思われた石段を登り終えると巨大な一枚岩、さらにその上に天に突き立つ大岩が現れた。鳥居のしめ縄は神事によって焼け落ち、地面には炭が散乱している。荒々しい印象を受ける。一段高いところにある社殿に手を合わせる。左手には新宮と太平洋が広がっている。ここからだと新宮が隅々まで見渡せる。素晴らしい眺望である。
 下に向かい、今夜の宿を探す。新宮駅周辺の公園でテント泊がいいだろう。今夜は雨になるらしい。できれば雨が降る前にテントを張ってしまいたい。
 途中のコンビニで食糧を調達し、新宮駅前に行く。しかし公園の門は閉じられてしまっていた。とりあえずバスの待合所に入る。朝までやっているのであればここで寝てしまいたい。奥まったところで食事にする。酒井と五十嵐はカップラーメン。そのまま寝る。
(熊野市~新宮 24㎞)

2/17
 起きて駅前のローソンに入りイートインで食事。お湯があるので便利だ。その後新宮の街をひたすら南下し、那智に向かう。
 昨日と同じような海岸の道をひたすら進む。途中小さな峠があるがこれまでの峠と比べると圧倒的に楽だ。那智駅前に着くと、道の駅があるので、入る。道の駅では紀伊路の解説、そして補陀落渡海について模型が展示され、那智大社での神事の映像が流されていた。
 道の駅から北西に進んでいく。段々と山深くなっていく中、日差しが温かいのとは対照に風は徐々に強くなってくる。
 ここまで来るのにいろいろと現金を浪費してしまった。計画書にも書いてあるが、熊野本宮大社から新宮まで、帰りのバスには2千円ほどかかる。私はある程度余裕はあるはずだが、ぎりぎりである。酒井は十分に金を持っているらしい。五十嵐はというと、あと400円ほどしかないらしい。那智まで3日間の道のりを歩いて帰るつもりか。そして今日は郵便局が休みであるのでゆうちょからの現金引き出しもできない。
 途中、那智大社の参道入口に休憩所があったので立ち寄り、昼食にする。全員ラーメン。これまでほとんど観光客を見なかったが、ここにきて中国人観光客を結構目にする。ここから那智大社までは1時間もかからない。のんびりと休憩する。
 那智大社までの道には、美しい石段と樹齢数百年という樹々に彩られた参道を行く。参道を終え、すぐに那智の滝を見に行く。観光客がこれまでの神社とは比べ物にならないほど多い。那智の滝は予想以上の大きさと迫力を伴って現れた。確かに登りたくなってしまうのも頷ける。
 御滝餅という餅にあんこをくるんで引き延ばした銘菓がある。茶屋に入り食べる。御滝餅2つにほうじ茶付きで二百円也。提供する直前に鉄板で熱するので餅は柔らかく、中のあんこは熱く、口の中で蕩ける。あんこは粒あんで甘さが控えめなのでいくらでも食べられそうである。食後に更に十本買って店を出る。 
 社殿を回り、那智高原公園に行く。ここにはトイレや水場があるので、理想のキャンプサイトである。しかし実際に行ってみると、水は枯れていた。ここまで水は持ってきていなかったので水がないのは大問題である。しかしトイレにはしっかりと汲み置きの水がバケツに用意されていたので、それを使うことにした。さらにトイレの入口はシャッターが閉められる構造になっており、夜はシャッターを閉めれば寒さを防ぐことができた。
 トイレの中で食事をし、一つの多目的トイレに三人で眠る。電気は消せない仕様になっていたので、電球にシュラフの袋をかぶせる。
(熊野市~那智高原公園)

2/18
 寒さで目覚める。さすがに室内とはいえ山の上は寒い。朝食をトイレでとり、出発。今日は大雲取越と呼ばれる山を越える予定だ。明日、小雲取越を越え、本宮に着く。
 山道をひたすら歩く。これまでに無数の峠を越えてきたので、山歩きに慣れてきていた。しばらく歩くと、山道に白いものが見えてきた。雪が降っていたのか、それとも霜柱か、今夜は相当冷え込むだろう。夢中で歩くうちに今夜の幕営地である山間の村、小口に着く。廃校で昼食。α米やラーメン。現在時刻14時。まだまだ進めてしまう。そして私たちは体力、気力ともに万全であった。
 小雲取越に入り、延々と同じような山道を進む。途中五十嵐が英字のガイドブックを手に入れた。そして18時前には本宮に到着。
 結局28㎞の山道を一日で歩いてしまった。これまで以上に体力を要する山道だったはずだ。五十嵐と酒井の体力には驚かされる。本宮大社は確かに荘厳で熊野三山の最後を締めくくるに相応しいものであった。宵闇に浮かび上がる本殿は、吸い込まれそうな影を作っていた。しかしそれ以上に本来本宮大社があった場所、熊野川の中州に建てられた鳥居の迫力は凄まじかった。靖国神社の大鳥居も確かに巨大ではあるが、この鳥居に比べると小さいものである。
 バスの最終便に間に合う時間帯だったので新宮まで変えることにする。結局五十嵐は酒井にバス代を借りて帰った。
 新宮駅でバスを降り、ローソンのイートインで夜を明かす。活動終了。
(那智高原公園~熊野本宮大社29㎞)
 
2/19
 酒井が朝一番の電車で名古屋に向かうらしいので同じ電車に乗る。ぎりぎりに行き過ぎて切符購入に手間取り、駅係員の勧めるままに切符を買わされる。途中の駅で酒井と別れ、五十嵐と電車で進む。途中時間をつぶすために鈴鹿でも行くという五十嵐と別れる。そして一人になった。
 今回は大峰奥駈道での黄金発見の為の事前準備といった計画である。紀勢路を実際に歩き、知識、体力の面で大いに成果を得られた。探検を成した訳ではないが、計画としては成功といってもいいのではないだろうか。そんなことを考えながら映画を見て夜行バスに乗り、東京に帰った。

編集:阿部

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